雑記@状況はどうだい?

僕は僕に応える。考察とか感想とか分析とか日々の徒然の思考を残しておく場所(の予定)

派遣→バイト→外国人(今ココ)

ネット上で政治的な話をすると、右だの左だのとレッテル貼られたり、勉強不足な部分を突っ込まれてマウント取られたり、揚げ足取られてケンカふっかけられるの嫌なんで、ツイッターとかfacebookとかでそういう話は避けてきたんだけど。

 

でも先日、父親と話してて何となく政治の話になって、最終的にこれが社会の縮図か…と思わされたので、忘れないうちに書いておく。父の主張と自分の主張、まぁ自分は自分の主張が圧倒的に正しいと思ってるんだけど、正しさで世の中は回せないという話。

 

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労働力が足りないっつって外国人労働者を入れるって政策、けっこう賛否分かれてバトルしてるじゃないですか。

で、自分はもう完全に反対派なんです。

なんでかっていうと、その社会モデルの将来がすでにヨーロッパにあって、先行き明るいとは到底思えないから。

 

ヨーロッパの東側、東欧とか中欧とか言われる旧共産圏のマイナー諸国に関わりの深い仕事をしてるんだけど、その辺りで前に日本語教師をしてたことがあって。

でね、その辺りの国々って、EUの中でも西側諸国と全然物価が違うわけ。下手したら3倍とか違う。

でもEU内って基本、加盟国の国民はどこでも好きに移住して仕事できるってルールになってるらしいのね(一応手続きとかはあるんだけど、ビザとか労働許可とかそういう高いハードルがない)。だから、もちろんめっちゃ優秀な人たちはどんどん西側で仕事するようになる。だって給料3倍だから。同じ仕事するなら西へ行く。そりゃそうだ。

するとどういうことが起きるかっていうと、地元では企業が成長できなくなって、条件のいい仕事がなくなる。または企業自体が潰れる。だから、このあたりの国の人って、自営の人けっこう多い。あと公務員。いわゆるホワイトカラーのビジネスマンってのが、割合的に少ないの。

そしたら次、大卒とか院卒とか、ちゃんと勉強してきた若い子たちのまともな就職先が、地元には全然ない。むしろ、西側に行けば、飲食のバイトとかスーパーのレジ打ちとかの方が、地元でサラリーマンやる2倍も稼げたりするという事実。

新卒でキャリアもなく、いきなり西側の優良企業に就職なんて難易度高いし、とりあえず仕事見つかんないならロンドンにでも出稼ぎ行くかーってなる。大卒院卒の優秀な人材(のタマゴ)が軒並み、西欧諸国でフリーターするって事態が、マジで現実に起こってる。そういう元教え子がいっぱいいたので、実感として割合はすごく多いと思う。

 

そんでね、まぁそれに関してはEUの問題だから直接は今回の件と関係ないんだけど、そういうふうに出稼ぎで西側でバイト生活してた友人の話を聞く機会があって。

 

イギリスはロンドン、けっこう大きい飲み屋で出稼ぎバーテンやってた友人の話だと、とりあえず周りのスタッフはほぼ外国人(イギリス人じゃないってことね)。数十人規模のスタッフがいて、ホールも中もバーテンも、基本は出稼ぎ系外国人。

イギリス人は店長はじめ数人の、指示出したり経営面を支える上司枠だけ。

で、たまに平のスタッフでイギリス人も雇われたりするんだけど、彼らは総じて全然働かないらしい。

こんな労働しょうもない、って意識が見え見えで、全然仕事しない。で、すぐやめてく。なんでかっていうと、イギリス国民にとってその仕事は条件が悪いから。

そんな感じで自国民であるイギリス人がプレーヤーとして働いてくれないので、飲食店は基本的に人材不足。でその枠を、出稼ぎに来た東側のEU加盟国の若きホープたちが埋めていく。ネイティブ英語圏じゃない若者が、英語を普通に操って、なんならドイツ語だのフランス語だの、自分の周りで言えば日本語だって話せたりして、超優秀な子たちが「卒業したらロンドン行って、バイトとかで数年働きます、とりあえず」みたいなこと言ってる。英語すでにしゃべれるのに。

 

まぁ、それでその社会が回ってんならいいじゃんって思うかもしれないけど、問題がやっぱりあって。

彼ら出稼ぎ外国人に対して、「イギリス国内の雇用が減って失業者が苦しんでるのは、外国人に仕事を奪われてるからだ」って主張する人たちがたくさんいるんだって。

「いや、あいつら飲食とかレジ打ちとかやんないじゃん。全然仕事しないじゃん」って友人めっちゃキレてた。条件悪くて、人が足りなくて、その枠を出稼ぎ労働者が埋めて、それで社会が回ってんのに、いわれのない誹謗中傷を受けるんだって。「出ていけ」って酔っ払いに怒鳴られたりしたこともあるんだと。

つまり、事実とか理屈とかもう関係ないの。周りでは外国人がいっぱい働いてる、一方で仕事がない、雇用がないって嘆く人がいる。それだけで「外国人のせいだ!」って思っちゃう。思いこんじゃって、怒鳴りつけたり差別したりする。なんだこのジレンマ、「話通じねえんだよあいつら」っていう友人の話、うわぁーって思いながら聞いた。

 

日本でも、これって、遠くない未来の話になるんだと思う。

 

外国人労働者がいっぱい来て、まー今でも都市部ではコンビニとか飲食とか、外国人バイトわりといるけど、それがもっと当たり前になっていくんだよね。

で、たぶんそういう移民組は、職場で出世もできない。未だに女性だからって理由で役職に就けないような企業もあるのに、まして外国人なんてだよなー。そもそも正社員じゃなくて契約とかバイトとかそういうステイタスで働く人が圧倒的に多くなるだろうし。

んできっと、そういう立場でしかも言葉の問題とか文化の問題とかもあって、社会保障とかも受けられない人が大量生産されるわけだ。

ブローカーに借金して来日した手前、帰りたくても帰れず、ブラックボックスの中で訴える手段もなくこき使われる人たちがいっぱい生まれて、貧乏暮らしの外国人労働者が増えて中には犯罪に手を染める人とかも出てきちゃったりして、「外国人のせいで治安が悪くなったし仕事を奪われたし最悪~」とかいう差別の横行する社会になっていくわけだ。

 

こわー。

 

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っていう話を自分の考えとして、父親にしたんですよ。

そしたらサラリーマンあがりの父親はそれに猛反発しまして。

「でも外国人労働者が来ないと、もう日本の多くの会社は立ち行かないんだ」と。

「企業は余裕がなくて、明日を生きるだけで、目の前のことだけで精一杯」

「会社の回し方やシステムの問題を変えようにも、そのカネがないんだ」

「外国人を雇うのが解決法とは思っていないが、目の前の問題に対処するためには仕方がない」

とショウガナイジャン論法を振りかざしてきたので、「いやいや、そういうふうにしか回せない時点でその会社、先見えてるよね?」と言っても「それでもじゃあ潰れろというのか」「明日経営が立ち行かなくなって一家で首吊るみたいな状況でも、お前は外国人を雇わないというのか、死ねというのか」とまで言い出したので(そこまでなるんだったらもっと前に会社たためよ)と言いたい気持ちをぐっと抑えて「白熱したね☆さ、お出かけしよっかなー」っつってリビングを出た。これ以上は議論しても無意味だと判断した。

 

そもそもさ、今まで「自由な働き方!」とかなんとか言って、派遣って立場の労働者が大量生産されて、いつでもクビ切れるし福利厚生もなしで、みたいな裏技で人件費削って生き残ってきた企業がさ、「派遣の権利を!」みたいな風潮が来て「まずいな」っつて派遣切りして、で次は「バイトでも責任ある仕事でやりがいを!」とか言って社員みたいな仕事をバイトにさせて、有給もとらせない厚年にも入れないみたいなんで搾取して、でまた「バイトだってフルで働いてんだったら社会保障いるだろうがよ!」っていう風潮になってきて、「ヤバい」ってなって…って繰り返してきてるわけじゃん。で、相変わらず人件費が上げられないから、次は黙って低賃金で保障もなく働いてくれそうな外国人労働者に頼って、それでまた何とか生き延びようとしてるんじゃん。

そんなふうに次々犠牲にできるターゲットを変えながら、なんとか生き延びてねーって、そんなふうに国が仕向けるような政策だわ、って思うし、そういう企業をそうやって生き残らせるから、人件費を削って削って疲弊していくみたいなビジネスモデルでしかやっていけない企業がブラック上等生き残ってるわけじゃん。未来ないわーって。

 

でもそういうの、通じなかった。

どうやったら人件費削れるかってことばっかり考えて、そうしなきゃ生き残れないってもう思い込んでる相手に、柔軟に他のアプローチする必要あるんじゃない?って言っても、全く再考の余地がなかった。

目の前の父親ひとり、全く説得できなかった事実を突きつけられて、そりゃ社会も変わらんわってなった。

「このままじゃ潰れるー!」って国に泣きつく企業に対して「潰れてどうぞ」って思う自分と、実際に今潰れたら困る企業の人たち。

日本には、後者の方が圧倒的に数が多いんだもんな。

 

だからそこは民主主義。

外国人労働者はきっと受け入れられて、その先の未来が上向きになるとは思えないけれど、この国はそちらへ向かっていく。

 

なんか虚しいなあ。

とりあえず自分だけは自分がやってる自営業の中で、そういう搾取を前提としたモデルで経営はしないぞ、と思ったのでしたまる。そもそも誰も雇ってないけどな!

 

 

時間を紡ぐこと、時間が止まること。

wowaka氏が急逝して、数日が経った。

また昨日、藤原基央氏が40歳の誕生日を迎えた。

 

生きて時間を紡ぐ人と、亡くなって時間が止まった人。

その対比が自分の中でものすごく落差があり、グロテスクに感じたので、考えをまとめることもあまり意識しないで、今の思考を書いていく。

 

 

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wowaka氏は、ボカロ全盛期にボカロPとして発表した楽曲が有名で、ボカロに詳しくないライト層だった自分でも「ワールズエンドダンスホール」「ローリンガール」「裏表ラバーズ」あたりの楽曲は、音ゲーにハマった時期に知って衝撃を受けたことを覚えている。

ヒトリエとしての活動は、しばらくは自分の中ではwowaka氏=ボカロというイメージ(というか期待?)が抜けず、正直物足りないと感じてしまっていて、聴こうと思わない時期もあった。

それが時間が経つうちに、自分自身がボカロの曲から離れて時間が経ったこともあり、ヒトリエの曲をフラットな視点で聴けるようになり、ここ数か月は「ヒトリエ、いいなぁ」とマイブーム的に、仕事中や料理中に聴くプレイリストにだんだん頻出するようになってきていた。「これからもうちょっと聴きこんでいこうかな」という、好きになっていく過程を楽しんでいる時期だった。

 

そんなタイミングでの訃報は、登りかけた山の途中で、山頂からの景色を見ることもなく、いきなり崖から突き落とされたような気分だった。

 

長年聴きこんできた年季の入ったファンの絶望は、想像もつかない。

自分みたいに、少しハマりかけていたってぐらいのレベルでも、数日経ってもショックが抜けず、ふと気づくとこのことばかり考えているのだから。

 

急性心不全という情報が事実かどうかということは、こちら側では知る由もないので、公式の話を信じるという姿勢でいる。

で、事実だとしたら、本当になんで、こんな才能溢れる人が、こんな形で突然命を落としてしまうんだと、悔しさと惜しさしかない。

もっとずっと、誰かの心を揺り動かす作品を世に出せるはずの人だったのに。

もっとずっと、これからの音楽の世界を広げていってくれるはずの人だったのに。

 

本当に、悔しい。

 

祖父が寿命と呼べる歳で亡くなったとき、こんな気持ちにはならなかった。

寂しさや喪失感はあったけれども、納得していた自分がいた。

 

友人が三十路過ぎで事故で亡くなったときは、今の気持ちと似ている。

どうすればよかったんだろう、何ができたんだろう、あの時に会っておけば、などと後悔は尽きなくて、数年経った命日あたりに共通の友人と飲んで泣きたくって、それでやっと気持ちに一区切りついたような気がしたことを覚えている。

 

同じではないけれど、似た思いをまた抱えていくのかな、と思うと、お腹の底が重くなるような、陰鬱な気持ちになる。

けど同時に、時間がそれを軽くしていってくれることも実感としてわかっている。

 

 

 

敬愛する中島みゆき氏の楽曲に「永久欠番」という曲がある。

 

どんな立場の人であろうと
いつかはこの世におさらばをする
たしかに順序にルールはあるけど
ルールには必ず反則もある

街は回ってゆく 人1人消えた日も
何も変わる様子もなく 忙しく忙しく先へと

 

悲しくても悔しくても、残された人はやっぱり自分の時間を生きていかなきゃいけないわけで、辛くて何も食べられない、眠れない日々が数日続いたとしても、結局は食べなきゃ眠らなきゃ人は死んでしまうわけで。

だから「変わる様子もなく」街は回っていく。いかざるをえない。

たぶん自分も、時間とともに平気になっていくのがわかっている。

 

ただその無情な流れに、途方もなく虚しさを感じる。

 

どんな記念碑(メモリアル)も 雨風にけずられて崩れ
人は忘れられて 代わりなどいくらでもあるだろう
だれか思い出すだろうか
ここに生きてた私を

 

痛いぐらいこの曲が頭から離れなくて、ずっと考えていた。

 

いつか人は死ぬし、100年経てば覚えている人だっていなくなる。

どんなに偉業を成し得た人だって、歴史に名前は残ろうとも、その本当の姿を覚えている人はやっぱり100年後ぐらいにはいなくなっているわけで。

 

だったら、何のために何かを残そうと思うんだろう。

何かを残してほしいと思うんだろう。

どうせいつか忘れられるというのに。

この「惜しい」「悔しい」って感情はどこから来るんだろう。

 

 

だけどその亡くした相手が大事な存在だった人たちにとっては、やっぱり何かが変わってるんだ、と思う。見えなくても、絶対に。

忘れるのは自然なことだし、世の中何一つ変わってないようにも見えるかもしれないし、自分だって友人を亡くした後も数年後には結局こうやってのらくら幸せに日々を生きているし。

だけどそれは、その亡くした存在がなかったことになっているわけじゃないんだってことを、自分はわかってる。

月並みだけど、自分の中にその人の記憶が残っていて、そこから思うことや考えることがあって、無意識にでも意識的にでもそれが自分の行動や価値観へ還っていくなら、それだけで意味があるんだと。

 

そうやって、命から命が伝わって、その連鎖が未来へ繋がっていくなら、それでいいのかもしれない。

彼の作品から何かを受け取った人たちが、そこから作り上げていく各々の生活の中に、彼の存在はきっと息づいていて、そうやって何かが少しずつ変わっていく芽になるのなら、それで。

 

だけど、彼が生きていたら、そんな芽がもっと多くの人たちの中に生まれていたかもしれないと想像して、やっぱり悔しい気持ちは晴れない。

 

こうやって、しばらくは同じところを自分もグルグル回りながら、進んでいくんだろうなぁ。

 

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自分の中で消化できていないのだから、文章にしたって散漫になるのはわかってる。

でもなんか、呆然と同じことを考える時間が増えていて、とりあえず言葉にしてみようと思ったので、こうやって書いてます。

 

BUMPの藤くんが40歳の誕生日を迎えて、ツイッター界隈で祝福の声がトレンドにまで上がる中、自分もこのタイミングほど、彼に「生きててくれてよかったありがとう」と思う瞬間はなくて。

 

同じ時代を生きていることに感謝して。

もっともっと、受け取ったたくさんのものを自分の中に根付かせて。

それでも、想像もしたくないような別れの可能性だってあるんだってことを肝に銘じて。

一緒に生きていられる時間は無限じゃないから、大切にしようと思った。

 

 

 

オンリーロンリーグローリーが見せてくれた光の話

自分には、それがなかったら今の自分はいないってぐらい思い入れのある曲ってのが、いっぱいある。

そんでその多くが、BUMPの曲なんだけど。

(そのへんのBUMPレベルに関しては、前書いたやつを読んでくれたら、あーこの人こういうファンなのねってのがなんとなく察していただけるかなと)

 

その中でも、表題のこの曲。

「オンリーロンリーグローリー」。

これは、自分の人生を変えてくれた曲だと思ってる。

というより、変えようかと思った瞬間に背中を押してくれた、という方がより近いかな。

 なんでそんなふうに思ってるのかってのを、長々と自分語りで申し訳ないけど、まぁここはそういう場だと開き直って、徒然書いていこうと思う。BUMP聴きながら。

 

 

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大学を卒業してから、地元を離れて東京で数年サラリーマンをしていた頃の話。

その頃の自分は、人生で間違いなく一番、病んでた時期だった。

 

 

始まりは、たぶん誰もが躓いたり悩んだりする、就活からだったんだよね。

自分は大学では専門が外語系だったので、在学中は中欧のとあるマイナー言語を勉強してて、留学とかもしてみたりして。それが超楽しかったのと、もともといつか外国で働いてみたいって気持ちがぼんやりとあったから、将来は何かのタイミングが合えば、この国で仕事できる機会があればなーなんてことも思ってたり、そんな大学時代を過ごしてからの、就活。

 

でもマイナー言語って実は日本だと新卒の就職で必要とされることってあんまりないというか、それよりとにかく英語、TOEIC800点取ってナンボみたいなとこがあって(自分は英語は得意じゃなかった)、マイナー言語は+αで持ってればどこかで役に立つかもねーぐらいな感じでしかアドバンテージになんないって現実があって。

そもそも多少マイナー言語が使えたって、それはあくまで自分が持ってる技術であって手段でしかない。

それを使って何がやりたいのかってとこが根幹の問題で、自分には具体的にやってみたい仕事っていうものが恥ずかしながら何にもなくて。

さらにそんなマイナー言語縛りで就職先を探してみても、選択肢自体も全然なく。

 

それでとりあえず、習得した言語は一旦横に置いといて、新しい世界を見るのもいいじゃん、何となくよさげだと思ったとこ受けてみるか!みたいな感じで就活を始めて。

あと東京!首都経験したい!みたいなのもあったから、最終的に、その言語や国とは全く関連のない、東京のあるメーカーに営業として入ることになりまして。

でもその職種にも業種にも強いモチベーションはなかったから、正直「こんなもんでしょ。土日休めるんだし、余暇を充実させたキラキラ大人になるんだ♪」みたいなゆるーい感じで社会人デビューを飾ったわけです。

 

 

でも入ってみて、まーほんと社会の洗礼を色々受けまして。

始めは楽しめる部分も無くはなかったけど、往復二時間の満員電車通勤に、多くはないけど残業もあって帰宅は毎日9時ごろ。

平日は帰宅すると疲れで何もできず、飯食って寝るだけ。消耗の一途。

週末も「なんでわざわざ休みに疲れることしなきゃならんのだ」と出かけることが少なくなり、「外の世界」のことを考えると現実とのギャップに憂鬱になるので、留学時代の友人ともだんだん疎遠になって。

そのうち好きだったアニメも漫画もゲームも、現実に戻るときの辛さが勝るようになって、手が出なくなった。

家ではなるべく布団の中にいないと、疲れがとれなくて明日辛いんじゃないかって不安になるようになり、休みの日は朝も昼もなくずっと寝たまま。

夕方ぐらいに低血糖でクラクラし始めるので、食パン食べてまた寝る、みたいな。

仕事はもうずっとモチベーションを持ててなくて、余計な仕事が増えないように、ただひたすら現状維持。でも残業しないで帰ったりすると「あいつ仕事足りてないんだな」って思われるから、忙しく必死で頑張ってるふりをして、仕事増やされないように牽制したりして。

 

そうやって騙し騙し数年働いていくうち、日々の生活から「楽しい」とか「やってみたい」とかいう感情が消えていって、もうほんとにネガティブの化身そのもの。口を開けば愚痴ばかりになっていた。

通勤の帰路、家まであと10メートルぐらいのとこで意味わかんないぐらい涙が出てきたりして、自分がどんどん、何かに蝕まれて、ヤバいぐらいダメになっていくのを実感した。

 

 

 今から考えると、あれ鬱だったわ、って思う(生きててよかった)。

100時間残業とかそういうレベルのもんじゃ全然なくて、パワハラとかでもないし、会社はそれなりの優良企業だったと思う。

でもだからこそ逃げ道がないというか。

完全に自分だけが、ヘタレの根性無しで、誰にでもできる仕事ができない、できそこないの人間だと思ってた。

世の中には相性ってもんがあって、どんなに頑張っても音程とれない人や料理できない人や絵が描けない人がいるように、ただその場所が自分に合わなかっただけなのだと。

今ではそんだけのことだったなーと思えるんだけどさ。

その頃はやっぱそうは思えなくて。

 

「いつか…」なんてぼんやりと考えていた未来なんて、永劫来るわけない。

もうその道は断たれて、この道はもう絶対にその未来には繋がってないんだ。

自分はこのまま、それこそ“死んだ魚の目”で、クソみたいな日々を繋いでいくだけだ。

もうきっと1歩もそこに近づいたりはできないんだー、って。

もうほんとに、ずっと絶望してた。

 

 

 

そんでまあ、そういうストレスみたいなのが実際、頭痛とか眩暈とか、食欲不振とか瞼の痙攣とか、身体にも症状として出るようになった頃。

年明け頃だったかな、社内の壁にかかった新しい年のカレンダーで、3月の会議の予定かなんかを確認する機会があって。

それが2か月毎のページだったので、必然的に3月/4月のページを見る。

で、そのページを見たときに、

「あれ、4月?もうすぐ新年度?4月も自分はここでずっと同じように仕事すんの?」

ってふと思った。

それでもう1ページめくって5月/6月のページを見て、そしたらもう本当に目の前が真っ暗になった感覚があって。

あれ?あれ?って。

視覚的にはもちろん見えてるんだけど、意識がついていかないというか、むしろ遠ざかっていくというか。

 

で、その感覚が消えないまま迎えた、その週末。確か日曜日だったと思う。

近所のスーパーに買い出しに行って、イヤホンつけてipodをシャッフル再生して。

帰宅して、荷物を床に置いて、何気なく部屋にかけてたカレンダーを見た。

 

そしたら、やっぱり4月以降のことがまるっきり見えないの。

これからこのカレンダーを埋めていくだろう予定のうち、一つとして、自分のことのように思えない。

それがでもやっぱ自分なんだよな…と想像すると、吐き気がして。

 

それで、なんかふと、そうか、自分の場所ってここじゃないのかも。と思った。

 

思った瞬間。

つけっぱなしにしてたイヤホンから。

歌詞が、急に鮮明に耳に飛び込んできた。

 

  そしてその身をどうするんだ 本当の孤独に気付いたんだろう

 

どきっとした。

思わずそこから紡がれる言葉に耳を傾けた。

 

  死んだ心をどうするんだ 忘れた振りして覚えてんだろう
  突き放しても 捨ててみても どこまでも付いてくるって事

 

なんだこれ?

なんでわかんの?

今、心が死んでるとか、忘れられなかったものがあるとか、

そういうの、なんでわかんの?

自分でもわかんないまま、死にかけてたのに。

 

  置いていかれた迷子 遅すぎた始まり
  さあ 何を憎めばいい
  目隠しをしたのも 耳塞いだのも
  全てその両手

 

そうだった。

現実と向き合うのが辛くて、未来を見ようとするのがとにかく痛くて、ずっともう、見ないふりをしてきた。

うまくいかない全部を人のせいや環境のせいにして、自分はもう終わったんだ、変われないんだと絶望して。

でもそうしてきた正体が、実は、この自分の両手だったんだ、と気づかされた。

 

 

そして曲は続く。

やさしく諭すように、励ますように、

あっち見てみなよ、と指で示すように。

 

  選ばれなかった名前を 呼び続けてる光がある

  隠れてみても 逃げてみても いつかは照らされるって事

  眩しいのは最初だけ 目隠し外せ

 

  ほら 夜が明けた

 

カレンダーの先の日々塗りつぶすような、真っ暗な闇が広がった眼前。

そこへ急にものすごく眩しい光が差し込んできた、と思った。

 

選びたい未来をもし選んだとしたら?

もしかして、そこへたどり着けるのかもしれない。

無理だ無謀だと目をそらしてきた、その未来へ続く道を、今ここで選べば。

だって、曲は言ってる。

 

  ロンリーグローリー 大丈夫 どうやら歩ける

 

そうか。

踏み出してみれば、案外歩けるのかもしれない!

 

そう思ったら、何にもねえやと思ってたこれからの日々が、急に眩しく光り出した。

自分の未来に「命」が宿った気がした。

 

  歩き出した迷子 足跡の始まり
  ここには命がある
  選ばれなかったなら 選びにいけ
  ただひとつの栄光

 

ホントになんなの?

この曲ってもしかして自分が書いたの?(んなわけない)

流れてくるその言葉を、一言も聞き逃すまいと、身じろぎもしない自分。

 

  ロンリーグローリー 最果てなど無いと知る
  この歩みよりも もっと速く 飛び続けてる光ならば
  オンリーグローリー それこそが狙うトロフィー
  特別じゃない この手を
  特別と名付ける為の光

 

 

 

気がついたら、ipodをぐっと握りしめて、部屋の真ん中に立ってた。一人で。

イヤホンから流れ込んできたその見えない何かで、背中の辺りがワーっと熱くなって、それが上の方まで上がってきて、目から涙が出てきた。後から後から出た。

ひらけた視界がキラキラしてて、とにかく止まんなくて、棒立ちのまま上向いて、しばらく声出して泣いた。

 

「仕事やめる。明日会社に言う」

そのあと何度も何度もこの曲を聴き返しながら、決めた。

この時の興奮は、翌朝になっても消えなくて、迷いもなくその日、上司に伝えた。

 

 

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ほんとに今でも、シャッフル再生(BUMPだけじゃない、全曲シャッフルよ)してたipodから、あの瞬間に「オンリーロンリーグローリー」が流れたの、偶然じゃないんじゃないかって思ったりする。

 

世界って、見えない力か何かで、

「あんたはこうした方が幸せになれるよ。その気があるなら手助けするよ」

みたいな感じで、いろんな場面で進むべき方角を示してくれる時があって。

BUMPの曲は、そういうなんか言葉じゃ説明できないようなものを代わりに伝えてくれたり、自分でも気づいてなかった自分の気持ちを言語化してくれたりしてくれる気がするんだよなぁ。

自分と世界を繋いでくれて、繋がった世界の風景を見せてくれる、みたいな。

(あ、宗教じゃないヨ。ただの信者ダヨ)

 

 

今の自分だって、相変わらずこの先の未来は全然見えてない。当たり前だけど。

でも、絶望?鬱?ちゃんちゃらおかしいわ!って笑いながら毎日生きてる。

 

それはこの曲が、あの日、真っ暗で何も見えなかった未来を、

眩しくて何も見えない未来に変えてくれたからなんだ、と今でも思ってる。

 

 

www.bumpofchicken.com

 

亜人ちゃんについて語りたい。

 仕事でどうしても急ぎで注文したいものがあって、これに頼るしかないか…ということで、年明けからamazonプライム会員になった。

前々から映画やアニメを色々観られるというので気になっていたこともあって、せっかくなので無料お試し期間が終わった後もしばらく会員を続けてみてるんだけど。

その中で今回視聴した「亜人(デミ)ちゃんは語りたい」というアニメについて思ったことを書いてみようと思う。

 

亜人ちゃんは語りたい】@Amazon プライム

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B01N4KENHZ/ref=atv_hover_title

 

このアニメは観た人なら誰でもわかるとおり、社会におけるマイノリティーの立ち位置や彼らとの付き合い方をテーマとして内包している。

バンパイアや雪女、サキュバスデュラハンなどの「人に近いけれど違うところがある」キャラクターが、普通の人間の中にマイノリティーとして暮らしていたら…という設定で、それは例えば、身障者であるとか外国人であるとかLGBTであるとか(具体的に何がどれに該当するということではなく)、現実の日本におけるマイノリティーのメタファーとして、「亜人」というものが身近に存在する世界を描いている物語である(と思う)。

 

世界観としてはよく作りこまれていて、デュラハンは自分の頭を抱えているから腕筋が締まっているだとか、サキュバスは周囲への催淫を避けるため満員電車に乗れないだとか、バンパイアには国からパックされた血液が支給されるだとか、マイノリティーが自身の個性によって抱えているハンディキャップやそれを補うための工夫、また整備されている福祉の現状などは「なるほどなー」と唸ってしまうほど、妙に現実味があり、とても面白かった。

また、クラスメイトがハンディの話になると気まずさから話題を逸らし、その態度に亜人の子が周りに壁を感じるシーンや、教師が亜人の生徒に対して踏み込んでサポートをし過ぎているとの指摘に悩むところなど、マイノリティーとの距離感やコミュニケーションの取り方の表現が実にリアルで、実際の自分に置き換えた場合の、他者との接し方を考えさせられる場面がたびたびあった。

 

設定やストーリーとしても考えさせられる部分が多いアニメだけれど、それはいろいろな場所に書かれている口コミやレビューを見ればわかることで、まぁ自分もだいたい他の視聴者と似たような感想を持っているので、その部分については割愛するとして、今回ふと思ったのは「亜人」という言葉について。

 

これ【亜】の意味って、【二番手】とか【下位の】とか、もっと言ってしまえば【純正じゃない】って感じの、微妙にネガティブなニュアンスがあるじゃないですか。「亜流」とか「亜種」とか、まさにそんな感じ。

それで考えると「亜人」って言葉も、なかなかどぎついなぁと思って。人間から産まれた存在なのに、「人間じゃない」と定義されてるようなもんで、響き的に固いからということで現在は「デミちゃん」と呼ばれ始めてるというくだりもあったけれど、デミってデミヒューマンってことで、やっぱり人間じゃないってことじゃん、と思ってちょっと複雑になった。もうちょっと差別感のない言葉なかったのかと。

 

と、ここまで考えたときに、じゃあ実際の日本社会のマイノリティーのいろんな呼称はどうなんだろうって疑問がふと沸いてきた。

 

例えば「ハーフ」。これ半分って意味だよね?半分だけ日本人って意味だよね?「外人」に至ってはもう外の人だし、「障害者」ってのはハンディがあるってことだろうけど対義語が「健常者」ってのも障害者が普通じゃなくて健康じゃないって言ってるようなもんで。

そういう現実世界のマイノリティーの呼称も、よく考えたらけっこう差別感満載で。

だけど我々はその呼称を差別意識を持って使用しているわけじゃないから、別にいいんじゃないか呼び方なんて…と思った時に、「亜人」の響きに戻って「ああ、そういうことか」と。

 

このアニメの世界って、基本的にすんごく優しい世界で、社会が亜人たちを差別で苦しめないように既に福祉ががっつり進んでいるし、亜人の親は家族としてその障害を既に乗り越えている“デキた”人達だし、教師にも生徒にも「亜人はちょっと自分たちとは別」という意識はあれど、彼らを悪意ある目や差別的な目で見たり蔑視したりということはなく(陰口をたたくクラスの女子も、差別意識というより普通の(?)妬み嫉みで、正直亜人だからとか関係ない女子特有のやつ)、めちゃめちゃマイノリティが生きやすい設定になっている。物珍しさにジロジロ見てくる輩も、体質の違いを気味悪がる輩も、「亜人のくせに」と罵る輩も一切出てこない。亜人の研究が人道的見地から禁止されている、という設定からも、そういう差別的な言動が厳しく罰せられる社会なのかもしれない。

だからこそ「亜人」っていう呼称が余計に違和感を持っているんだと。こんなに差別もクソもないくらい意識の進んだ世界だから、「亜人」という言葉だけがひどく冷淡に響くのかもしれないと思った。

 

 翻ってこの現実ではどうだろう。

正直、「亜人」までの違和感は感じることはあんまりない。まあ「外人」とかはけっこう差別用語認定されて久しいので、自分も「外国人の人」とかに置き換えて、使わないようにはしている。でも差別だ何だということが叫ばれ始めるずっと前から、この国では「日本人じゃない人」のことは「外人」と定義されてきたので、その言葉に差別的なニュアンスを感じずニュートラルな呼称として「外人」を使用している人だっていっぱいいる(特に年配の人)。ニコニコしながら「外人さん」って観光客に話しかけるおばちゃんいっぱいいる。

マジョリティが悪意のない運用をしていれば、言葉本来の持つニュアンスはニュートラル化されていくのかもしれない。だから言葉狩りみたいに、そんなに目くじら立てんでもいいんじゃん?と思ったりする。みんなそんな悪い意識でもって「外人」とか「ハーフ」とか使ってるわけじゃないよ。昔からみんなが使ってきた言葉がわかりやすいからそのまま使ってるだけだよと。

だけどそれってまさに、このアニメの世界でクラスの子たちが話していた「亜人って、ほとんど普通の人と同じなんでしょ。あんま気にしなくていいんじゃない」っていう発想と同じで、この違和感をうやむやにすること自体が「違いがあるのにそれを見ないふりして同化しようとする」感覚なんだよなーと。

 

マジョリティに属する側が「そんな気にすることじゃないよね」って結論付けるのって、まあゴリゴリに「あんたたちは俺らとは違う!」っつって座る席の色分けたりとか住む地域分けたりとかよりはもちろん断然いい方向なんだけど、現実にあるハンディを見ないふりして「自分で何とかしなさいよ」って突き放すことと同義でもあって。本当の意味でマイノリティに属する側が生きやすい社会ってのは、「どういう違いがあるのか」「どうすれば生きやすいのか」ってことをマイノリティ側に聞かなきゃ始まらんのだよね。当たり前だけど。

だって例えば自分は左利きなんだけど、右利きの人が想像つかないところでつまづいたりしてるのよ。改札のスイカ当てるとこ右側だし、給食(懐かしい…)とかで使う先割れお玉とか、片方尖ってるレードルとか、左手だと全然使えないし。どっちも自分にとってはただのお玉。お玉部分しか使えないわけ。左利き用のギターなんて学生の頃の財力じゃ買えなかったし。でもまぁそれを周りに主張したところで、ただのめんどくせえ奴だからさ。言わなかったけどさ。

さっき挙げたいろんな呼称だって、無自覚に差別用語使ってることに気づけよ!って思いながらも、めんどくせえ奴って思われるのが嫌で口を閉ざしているマイノリティだっているかもしれない。実際、日本語ペラペラ&日本在住の外国人の知り合いがいるんだけど、時々近しい相手からも「外人扱い」を受けて凹んだりしてるんだよね。

 

そういう自分の経験と重ねてみても、このアニメの伝えたいことというか、こうすればいいんじゃない的な提起として、「違いを認めて理解を深める」って落としどころは、オーソドックスなんだけどすごくストンと腑に落ちる結論で。「亜人ちゃんは語りたい」ってタイトルの通り、話をすることがその一歩なんだなーと。そういうことを考えたアニメでした。

 

…でもさ、ハーフの人を「ダブル」と呼ぼうとか、「障害者の害の字がイメージダウンさせてる!ひらがな表記で」とかっていうのも、後から取り繕った感アリアリで人権臭が強くて正直センスないよなって思う。

結局は「デミちゃん」あたりが若者発信ぽくて未来を感じる点で、ちょうどいい妥協ポイントなのかもしれない。

 

原作は未読だけど一応⇩

亜人ちゃんは語りたいとは

 

自分はBUMP教の信者だと思っている。

ブログを始めてからいきなり趣味全開で何だが、自分はけっこう年季の入ったBUMP OF CHICKENの音楽のファンである。

ファンといってもツアー会場をはしごする訳でもなければグッズを買い漁るでもない(なんならライブ会場に行ってもタオルすら買わない)、音楽雑誌をスクラップしたりインタビューを読み漁ったりするタイプのファンではない。

ただアルバムが出ればCDを買い、ipodに落としては聴き倒す。Youtubeに新曲が発表された時には、PCでブラウザを立ち上げると一番最初にYoutubeを開きエンドレスで作業用BGMにする。ライブは応募するもことごとく落選するので、今までに1度しか生のBUMPを拝めたことはない。それをCDを数枚買って当選確率を上げようだの、オークションやダフ屋などで何とかしようだのとまではしない。

これはおそらくファンレベルの問題ではなく、自分のライフスタイルの中での音楽への向き合い方がこういう形なのだと思う。そして、自分の中でのBUMPの位置づけは間違いなく高い。信者という言葉は往々にして、行き過ぎたファンを揶揄するネガティブな言い回しとして使われているが、彼らの表現に感銘し共感し、それがいくらか心の拠り所になっているという点では、自身にとって彼らは宗教であり、自分は信者であると言ってもいいのかもしれない。

今までの三十余年の人生の中で、いろいろな分岐点や変化の過程にBUMPの曲がいて、迷ったり折れそうになった気持ちを支えてくれ、背中を押してくれた曲がたくさんある。もう自分の背骨の椎骨のひとつはBUMPでできていると言っても過言じゃないと思う。

 

自分がBUMPを知ったのは、メジャーのデビューシングルだった「ダイヤモンド」からだ。ラジオか何かで聴いたんじゃないだろうかと思うが、そのあたりは正直ほとんど記憶にない。その後BUMPが大ヒットして世に知られるようになったのは言うまでもなく「天体観測」であり、そしてその後わりとすぐに「ハルジオン」が出た流れは覚えている。ただその頃はバンドブームで、いわゆるロキノン系バンドがわんさか湧き出ていた時代で、自分自身はBUMPをあまり特別なバンドだとは思っておらず、何となくアルバムが出たらCDをレンタルして聴く、ぐらいのライト層だった。

 

しかしそこから、BUMPの音楽はどんどん自分を侵食していった。

 

BUMPの曲の怖いところは、聴いた時に「この曲いいなー」と感じて好きになるわけじゃないところだと思う(いや、もちろんいい曲なんだけど)。世の中に「いいな」と思う曲はたくさんあれど、BUMPに限って言えば、自分の中では「いいな」ではなく、「これは自分のことだ」と思えてしまうほどの凄まじい共感というか、自分ではうまく説明できなかった、モヤモヤとした形のない感情を、目に見える形にしてくれるもの、という感覚だ。だから、その歌詞が共感できる瞬間に出逢うまで「ふーん」とばかりに聴き流していた曲が、ある日突然自分の中でテーマソングになったりする。「あ、自分は今こういうことを感じていたんだ」と、曲に気づかされる瞬間が、これまでに本当にたくさんあった。

 

この感覚を最初に味わったのは、少しマイナーなところかもしれないが「同じドアをくぐれたら」だった。

“もう気付いたろう 目の前のドアの鍵を受け取れるのは 手の中がカラの時だけ”

やりたいことや進みたい道を選ぶ時には、捨てなければならないもの、乗り越えなければならない別れも必ずある。これまで何度もこの曲は聴いてきたはずなのに、そういう決断の場面に自分が直面した瞬間に初めて、この曲の静かな歌い出しが真っ直ぐに自分の胸に突き刺さったことを覚えている。「あ、これ、今の自分だ」と思い、さらにそこから、“僕らは行ける” と自分の抱える迷いを断ち切ってくれた曲だった。

 

それまでもBUMPは自分でかなり「ファンだな」と思っていたのだけど、これをきっかけに一曲一曲を聴きこんでいくようになり、気づけばBUMPの音楽は、自分にとってなくてはならない体の一部となっていた。

満員電車に揺られながら「ギルド」に涙し、「ノーヒットノーラン」に奮い立たされ、「オンリーロンリーグローリー」や「ロストマン」に決断の背中を押され、「グングニル」に鼓舞され、「firefly」に励まされ、「beautiful glider」や「(please) forgive」が今も自分の生き方を見守ってくれている。

どの曲のどの部分がどういうふうに自分と重なり自分の血肉になっているのかを語り出すと、一つの記事には到底収まらないので、それはまたちょっとずつ曲ごとにでも語っていきたいと思う。(そもそも、このブログを始めた目的の一つが曲語りだわ)

 

ていうか、さっきからBUMPBUMPうるせえなこの信者が、とうんざりする人もいるかもしれないけれどそれはすいません。タイトルから察してくれ。

はじめに

自分はわりと考察するのが好きだ。

日常の中でふと考えたことや感じたことを、少し掘り下げてみたり、調べてみたりするのは好きで、無意識に思考の沼に嵌っていることも結構ある。

また、文章を書くのもわりと好きなので、そういう日々の徒然諸々を文章にして残そうと思うことは前から時々あった。

 

ただ、自分は学生の頃からわりと海外志向というか、外国行ったり住んだりする機会があり、リアルもわりかし充実していて、ひと昔前ならmixi、その後欧米で当時爆発的に広まっていたfacebook(これは今も仕事や連絡ツールとして手放せない)だとか、リア充向けSNSをそこそこ使いこなしていたので、ふと思い立ったときにはそういった場所に思考のかけらを投下したりしていたんだけど。

でも昨今のSNSの傾向として、

・写真ないと意味ない

・長文うざい

・ていうか小難しいこと書くな

的なプレッシャーがけっこうある気がして、そうかSNSってのは投稿を見る相手が基本的にオトモダチなわけで、緩くつながっていればいい、近況がふんわり伝わればいいという意識でSNSに参加している人たちにとっては、勝手にどうでもいい長文思考を「読めやこら」と押しつけてくる奴はめんどくさい部類なのだなということに気づいた。

じゃあこの日々生産される徒然な思考の置き場はどこにしようか、とじわじわフラストレーションを溜めていたわけです。

 

あとほら、こういうSNSって趣味全開にしづらいってのもある。

漫画とかアニメとかゲームとか、好きだけども、語りたい時ってあるけども、そういう場としてどうよ?と思っていた。好きな音楽とかも、「好き」っていうぐらいなら無害だけど、興味ないのに語り続ける人うざいじゃない。それにオタク文化匂わすだけでアレルギー反応する人もまだまだ多いし。

 

なんかそういうのもあって、リアルでうざがられるとダメージ大きいので、じゃあ匿名SNSかぁーって思って試し始めたのがtwitter。もともとアカウントはほぼROM専だけど持っていて、であれば匿名だし、趣味や思考の投下先として誰にも迷惑かけないしと思ったのだけど。

しかし今度は、これ、うまく使いこなせない。

使いこなせないというか、自分の欲しい場として、マッチしていない。

理由として、

・長文が書けない(当たり前)

・頻繁に更新する習慣がない

・更新しないとフォロワーも増えない

・ていうか相互フォローだのリツイートだのコメントだので交流しないとコミュニティーとして成立しない

・ていうか、コミュニティーがほしくてtwitterしてんだっけ?

・いや、違うわ。そもそも長文書けない時点で気づけ自分。

twitterは最新のネット上での話題とか議論とか、情報を集めるにはすごくいいツールだけど、この今の自分の欲求の受け皿としてはなんか違う。あとで読み返しづらいし備忘録にならない。長文書けないし。

 

そんで、じゃあ、長文書けて、更新頻度に気を遣わず、リアルにも気を遣わず、こういう文章を残す場所ってどこだ?と考えたところ、

「あれ、それがブログか」

と今さら気づいた。なんで今まで気づかなかったんだ。

 

気づいたらとりあえず形にしてみようということで、この度このブログを開設するに至ったわけです。

 

そんなわけでこのブログは、自分の思考やいろいろなコンテンツへの感想、考察、分析などなど、語りたい欲の捌け口としてスタートします。

これがこの先続くのか、続かないのか、誰かに読まれるのか、誰にも読まれないのか、現時点で全然わからないけれども、こういう文章を読むのが好きで、自分と趣味が合う人に届いてくれることをちょっぴり期待もしつつ、ふと思い立ったときに思い立ったテーマで気ままに書いていこうと思う所存です。

 

よろしくお願いします。