時間を紡ぐこと、時間が止まること。
wowaka氏が急逝して、数日が経った。
また昨日、藤原基央氏が40歳の誕生日を迎えた。
生きて時間を紡ぐ人と、亡くなって時間が止まった人。
その対比が自分の中でものすごく落差があり、グロテスクに感じたので、考えをまとめることもあまり意識しないで、今の思考を書いていく。
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wowaka氏は、ボカロ全盛期にボカロPとして発表した楽曲が有名で、ボカロに詳しくないライト層だった自分でも「ワールズエンドダンスホール」「ローリンガール」「裏表ラバーズ」あたりの楽曲は、音ゲーにハマった時期に知って衝撃を受けたことを覚えている。
ヒトリエとしての活動は、しばらくは自分の中ではwowaka氏=ボカロというイメージ(というか期待?)が抜けず、正直物足りないと感じてしまっていて、聴こうと思わない時期もあった。
それが時間が経つうちに、自分自身がボカロの曲から離れて時間が経ったこともあり、ヒトリエの曲をフラットな視点で聴けるようになり、ここ数か月は「ヒトリエ、いいなぁ」とマイブーム的に、仕事中や料理中に聴くプレイリストにだんだん頻出するようになってきていた。「これからもうちょっと聴きこんでいこうかな」という、好きになっていく過程を楽しんでいる時期だった。
そんなタイミングでの訃報は、登りかけた山の途中で、山頂からの景色を見ることもなく、いきなり崖から突き落とされたような気分だった。
長年聴きこんできた年季の入ったファンの絶望は、想像もつかない。
自分みたいに、少しハマりかけていたってぐらいのレベルでも、数日経ってもショックが抜けず、ふと気づくとこのことばかり考えているのだから。
急性心不全という情報が事実かどうかということは、こちら側では知る由もないので、公式の話を信じるという姿勢でいる。
で、事実だとしたら、本当になんで、こんな才能溢れる人が、こんな形で突然命を落としてしまうんだと、悔しさと惜しさしかない。
もっとずっと、誰かの心を揺り動かす作品を世に出せるはずの人だったのに。
もっとずっと、これからの音楽の世界を広げていってくれるはずの人だったのに。
本当に、悔しい。
祖父が寿命と呼べる歳で亡くなったとき、こんな気持ちにはならなかった。
寂しさや喪失感はあったけれども、納得していた自分がいた。
友人が三十路過ぎで事故で亡くなったときは、今の気持ちと似ている。
どうすればよかったんだろう、何ができたんだろう、あの時に会っておけば、などと後悔は尽きなくて、数年経った命日あたりに共通の友人と飲んで泣きたくって、それでやっと気持ちに一区切りついたような気がしたことを覚えている。
同じではないけれど、似た思いをまた抱えていくのかな、と思うと、お腹の底が重くなるような、陰鬱な気持ちになる。
けど同時に、時間がそれを軽くしていってくれることも実感としてわかっている。
どんな立場の人であろうと
いつかはこの世におさらばをする
たしかに順序にルールはあるけど
ルールには必ず反則もある
街は回ってゆく 人1人消えた日も
何も変わる様子もなく 忙しく忙しく先へと
悲しくても悔しくても、残された人はやっぱり自分の時間を生きていかなきゃいけないわけで、辛くて何も食べられない、眠れない日々が数日続いたとしても、結局は食べなきゃ眠らなきゃ人は死んでしまうわけで。
だから「変わる様子もなく」街は回っていく。いかざるをえない。
たぶん自分も、時間とともに平気になっていくのがわかっている。
ただその無情な流れに、途方もなく虚しさを感じる。
どんな記念碑(メモリアル)も 雨風にけずられて崩れ
人は忘れられて 代わりなどいくらでもあるだろう
だれか思い出すだろうか
ここに生きてた私を
痛いぐらいこの曲が頭から離れなくて、ずっと考えていた。
いつか人は死ぬし、100年経てば覚えている人だっていなくなる。
どんなに偉業を成し得た人だって、歴史に名前は残ろうとも、その本当の姿を覚えている人はやっぱり100年後ぐらいにはいなくなっているわけで。
だったら、何のために何かを残そうと思うんだろう。
何かを残してほしいと思うんだろう。
どうせいつか忘れられるというのに。
この「惜しい」「悔しい」って感情はどこから来るんだろう。
だけどその亡くした相手が大事な存在だった人たちにとっては、やっぱり何かが変わってるんだ、と思う。見えなくても、絶対に。
忘れるのは自然なことだし、世の中何一つ変わってないようにも見えるかもしれないし、自分だって友人を亡くした後も数年後には結局こうやってのらくら幸せに日々を生きているし。
だけどそれは、その亡くした存在がなかったことになっているわけじゃないんだってことを、自分はわかってる。
月並みだけど、自分の中にその人の記憶が残っていて、そこから思うことや考えることがあって、無意識にでも意識的にでもそれが自分の行動や価値観へ還っていくなら、それだけで意味があるんだと。
そうやって、命から命が伝わって、その連鎖が未来へ繋がっていくなら、それでいいのかもしれない。
彼の作品から何かを受け取った人たちが、そこから作り上げていく各々の生活の中に、彼の存在はきっと息づいていて、そうやって何かが少しずつ変わっていく芽になるのなら、それで。
だけど、彼が生きていたら、そんな芽がもっと多くの人たちの中に生まれていたかもしれないと想像して、やっぱり悔しい気持ちは晴れない。
こうやって、しばらくは同じところを自分もグルグル回りながら、進んでいくんだろうなぁ。
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自分の中で消化できていないのだから、文章にしたって散漫になるのはわかってる。
でもなんか、呆然と同じことを考える時間が増えていて、とりあえず言葉にしてみようと思ったので、こうやって書いてます。
BUMPの藤くんが40歳の誕生日を迎えて、ツイッター界隈で祝福の声がトレンドにまで上がる中、自分もこのタイミングほど、彼に「生きててくれてよかったありがとう」と思う瞬間はなくて。
同じ時代を生きていることに感謝して。
もっともっと、受け取ったたくさんのものを自分の中に根付かせて。
それでも、想像もしたくないような別れの可能性だってあるんだってことを肝に銘じて。
一緒に生きていられる時間は無限じゃないから、大切にしようと思った。