雑記@状況はどうだい?

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亜人ちゃんについて語りたい。

 仕事でどうしても急ぎで注文したいものがあって、これに頼るしかないか…ということで、年明けからamazonプライム会員になった。

前々から映画やアニメを色々観られるというので気になっていたこともあって、せっかくなので無料お試し期間が終わった後もしばらく会員を続けてみてるんだけど。

その中で今回視聴した「亜人(デミ)ちゃんは語りたい」というアニメについて思ったことを書いてみようと思う。

 

亜人ちゃんは語りたい】@Amazon プライム

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B01N4KENHZ/ref=atv_hover_title

 

このアニメは観た人なら誰でもわかるとおり、社会におけるマイノリティーの立ち位置や彼らとの付き合い方をテーマとして内包している。

バンパイアや雪女、サキュバスデュラハンなどの「人に近いけれど違うところがある」キャラクターが、普通の人間の中にマイノリティーとして暮らしていたら…という設定で、それは例えば、身障者であるとか外国人であるとかLGBTであるとか(具体的に何がどれに該当するということではなく)、現実の日本におけるマイノリティーのメタファーとして、「亜人」というものが身近に存在する世界を描いている物語である(と思う)。

 

世界観としてはよく作りこまれていて、デュラハンは自分の頭を抱えているから腕筋が締まっているだとか、サキュバスは周囲への催淫を避けるため満員電車に乗れないだとか、バンパイアには国からパックされた血液が支給されるだとか、マイノリティーが自身の個性によって抱えているハンディキャップやそれを補うための工夫、また整備されている福祉の現状などは「なるほどなー」と唸ってしまうほど、妙に現実味があり、とても面白かった。

また、クラスメイトがハンディの話になると気まずさから話題を逸らし、その態度に亜人の子が周りに壁を感じるシーンや、教師が亜人の生徒に対して踏み込んでサポートをし過ぎているとの指摘に悩むところなど、マイノリティーとの距離感やコミュニケーションの取り方の表現が実にリアルで、実際の自分に置き換えた場合の、他者との接し方を考えさせられる場面がたびたびあった。

 

設定やストーリーとしても考えさせられる部分が多いアニメだけれど、それはいろいろな場所に書かれている口コミやレビューを見ればわかることで、まぁ自分もだいたい他の視聴者と似たような感想を持っているので、その部分については割愛するとして、今回ふと思ったのは「亜人」という言葉について。

 

これ【亜】の意味って、【二番手】とか【下位の】とか、もっと言ってしまえば【純正じゃない】って感じの、微妙にネガティブなニュアンスがあるじゃないですか。「亜流」とか「亜種」とか、まさにそんな感じ。

それで考えると「亜人」って言葉も、なかなかどぎついなぁと思って。人間から産まれた存在なのに、「人間じゃない」と定義されてるようなもんで、響き的に固いからということで現在は「デミちゃん」と呼ばれ始めてるというくだりもあったけれど、デミってデミヒューマンってことで、やっぱり人間じゃないってことじゃん、と思ってちょっと複雑になった。もうちょっと差別感のない言葉なかったのかと。

 

と、ここまで考えたときに、じゃあ実際の日本社会のマイノリティーのいろんな呼称はどうなんだろうって疑問がふと沸いてきた。

 

例えば「ハーフ」。これ半分って意味だよね?半分だけ日本人って意味だよね?「外人」に至ってはもう外の人だし、「障害者」ってのはハンディがあるってことだろうけど対義語が「健常者」ってのも障害者が普通じゃなくて健康じゃないって言ってるようなもんで。

そういう現実世界のマイノリティーの呼称も、よく考えたらけっこう差別感満載で。

だけど我々はその呼称を差別意識を持って使用しているわけじゃないから、別にいいんじゃないか呼び方なんて…と思った時に、「亜人」の響きに戻って「ああ、そういうことか」と。

 

このアニメの世界って、基本的にすんごく優しい世界で、社会が亜人たちを差別で苦しめないように既に福祉ががっつり進んでいるし、亜人の親は家族としてその障害を既に乗り越えている“デキた”人達だし、教師にも生徒にも「亜人はちょっと自分たちとは別」という意識はあれど、彼らを悪意ある目や差別的な目で見たり蔑視したりということはなく(陰口をたたくクラスの女子も、差別意識というより普通の(?)妬み嫉みで、正直亜人だからとか関係ない女子特有のやつ)、めちゃめちゃマイノリティが生きやすい設定になっている。物珍しさにジロジロ見てくる輩も、体質の違いを気味悪がる輩も、「亜人のくせに」と罵る輩も一切出てこない。亜人の研究が人道的見地から禁止されている、という設定からも、そういう差別的な言動が厳しく罰せられる社会なのかもしれない。

だからこそ「亜人」っていう呼称が余計に違和感を持っているんだと。こんなに差別もクソもないくらい意識の進んだ世界だから、「亜人」という言葉だけがひどく冷淡に響くのかもしれないと思った。

 

 翻ってこの現実ではどうだろう。

正直、「亜人」までの違和感は感じることはあんまりない。まあ「外人」とかはけっこう差別用語認定されて久しいので、自分も「外国人の人」とかに置き換えて、使わないようにはしている。でも差別だ何だということが叫ばれ始めるずっと前から、この国では「日本人じゃない人」のことは「外人」と定義されてきたので、その言葉に差別的なニュアンスを感じずニュートラルな呼称として「外人」を使用している人だっていっぱいいる(特に年配の人)。ニコニコしながら「外人さん」って観光客に話しかけるおばちゃんいっぱいいる。

マジョリティが悪意のない運用をしていれば、言葉本来の持つニュアンスはニュートラル化されていくのかもしれない。だから言葉狩りみたいに、そんなに目くじら立てんでもいいんじゃん?と思ったりする。みんなそんな悪い意識でもって「外人」とか「ハーフ」とか使ってるわけじゃないよ。昔からみんなが使ってきた言葉がわかりやすいからそのまま使ってるだけだよと。

だけどそれってまさに、このアニメの世界でクラスの子たちが話していた「亜人って、ほとんど普通の人と同じなんでしょ。あんま気にしなくていいんじゃない」っていう発想と同じで、この違和感をうやむやにすること自体が「違いがあるのにそれを見ないふりして同化しようとする」感覚なんだよなーと。

 

マジョリティに属する側が「そんな気にすることじゃないよね」って結論付けるのって、まあゴリゴリに「あんたたちは俺らとは違う!」っつって座る席の色分けたりとか住む地域分けたりとかよりはもちろん断然いい方向なんだけど、現実にあるハンディを見ないふりして「自分で何とかしなさいよ」って突き放すことと同義でもあって。本当の意味でマイノリティに属する側が生きやすい社会ってのは、「どういう違いがあるのか」「どうすれば生きやすいのか」ってことをマイノリティ側に聞かなきゃ始まらんのだよね。当たり前だけど。

だって例えば自分は左利きなんだけど、右利きの人が想像つかないところでつまづいたりしてるのよ。改札のスイカ当てるとこ右側だし、給食(懐かしい…)とかで使う先割れお玉とか、片方尖ってるレードルとか、左手だと全然使えないし。どっちも自分にとってはただのお玉。お玉部分しか使えないわけ。左利き用のギターなんて学生の頃の財力じゃ買えなかったし。でもまぁそれを周りに主張したところで、ただのめんどくせえ奴だからさ。言わなかったけどさ。

さっき挙げたいろんな呼称だって、無自覚に差別用語使ってることに気づけよ!って思いながらも、めんどくせえ奴って思われるのが嫌で口を閉ざしているマイノリティだっているかもしれない。実際、日本語ペラペラ&日本在住の外国人の知り合いがいるんだけど、時々近しい相手からも「外人扱い」を受けて凹んだりしてるんだよね。

 

そういう自分の経験と重ねてみても、このアニメの伝えたいことというか、こうすればいいんじゃない的な提起として、「違いを認めて理解を深める」って落としどころは、オーソドックスなんだけどすごくストンと腑に落ちる結論で。「亜人ちゃんは語りたい」ってタイトルの通り、話をすることがその一歩なんだなーと。そういうことを考えたアニメでした。

 

…でもさ、ハーフの人を「ダブル」と呼ぼうとか、「障害者の害の字がイメージダウンさせてる!ひらがな表記で」とかっていうのも、後から取り繕った感アリアリで人権臭が強くて正直センスないよなって思う。

結局は「デミちゃん」あたりが若者発信ぽくて未来を感じる点で、ちょうどいい妥協ポイントなのかもしれない。

 

原作は未読だけど一応⇩

亜人ちゃんは語りたいとは